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篠井金山絵図が市民センターに飾られました

投稿日:2018年2月4日 更新日:

江戸時代に制作されたとされる「野州篠井村金山図」の複製パネルが2月初めに篠井地区市民センターの1Fロビーに飾られました。本件は当ブログで何度かお伝えしていますが、篠井地区に戦国時代~江戸時代にかけて存在した篠井金山を描いた絵図で、現物は東京・上野の国立科学博物館に所蔵されています。

今回、博物館にお願いしたところ快く絵図の画像データを頂くことが出来、それをもとにパネルを作成し、市民センターに掲示させてもらう運びになりました。
国立科学博物館をはじめ、市民センター、まちづくり協議会、連合自治会など数々の団体、個人のご理解、ご協力を頂き、実現できたことを本当に感謝しています。


野州篠井村金山図全景


金山絵図の説明書き


1Fロビーにパネルを掲示


篠井地区市民センター外観

事の発端は今から6,7年前にやっていた地域の情報紙を担当したことにさかのぼります。当時、篠井金山の歴史を連載してみようという話が持ち上がり、たまたま私が担当したのです。手がかりになる文献が本当に少なく、地域の年配の方から話を聞きながら手探りで情報を集め、何とか5,6回記事を書いて途中で終わってしまいました。

しかし、数少ない歴史資料の中には豊臣秀吉に1597年に篠井の金が献上されたとか、江戸時代初期の全国有力金山の中に篠井の名前があるとか、心躍らせるような記述が散見されるのです。何とかしてこの地域の歴史が闇の中に消え去ってしまわないように出来ないものかとその頃から考えていました。何か見える形で金山があった証(あかし)を地域の人に見てもらいたいと思い、当時、金山石臼の展示がいいのではないかと思い、石臼探しに奔走しました。結果的に石臼はあるにはあったのですが、半分に割れていたり、形をとどめないような無残な姿のものが多く、展示するには不適当でした。

たまたま、昨年夏頃にネットで「金山絵図のデータ提供が大好評!」という記事を目にして、これだ!と思いました。ネットの記事は秋田大学が所蔵している江戸時代の金山絵図をデータ化して、一般の人が利用できるようにデータをネット上で提供しているという内容でした。

秋田の金山の記事がもとになって今回のパネル化が実現できたのですが、本当に何の因果でしょうか、秋田の金山も篠井金山も開発したのは常陸の国(現在の茨城県常陸太田)の大名、佐竹氏なのです。佐竹氏は戦国時代に宇都宮藩から依頼を受け篠井金山の開発をしていたのです。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川の敵である西軍(石田三成側)に味方したというかどで徳川家康に1602年、秋田に転封されてしまいます。当時、山の中で何もなかった秋田で金山等の鉱山開発、秋田杉などの林業育成を行い、産業の振興に尽力したのです。

篠井金山には様々な物語が秘められています。なぜ佐竹氏が篠井金山を開発していたのか?いつまで金山は続いていたのか、分からないことがたくさんあります。一つ一つひもといて歴史が地域の宝になっていけばいいなと思う今日この頃です。
(終わり)
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