篠井金山の歴史

篠井には大昔、金の採掘で有名だった篠井金山がありました。(西暦1500年代の戦国時代~江戸時代にかけてです)金の産出量もそこそこ多くて金山の文献などで時々名前を見ることが出来ます。しかし歴史の全貌が定かでないためよく分からない点が多く、住民の頭の中から消え失せてしまいそうな状況になっています。

私は5年位前に地元の広報誌の委員をやっていて何とかその歴史をきちんとまとめたいと思い、調査をしながら年4回程度発行する広報誌に金山の歴史を載せていました。しかし、十分資料が集まらず5,6回掲載したところで中断してしましました。


江戸時代に書かれた篠井金山絵図

今はスマホでネットを自由に見られる時代なので、過去まとめた内容をネット上に公開し、その都度分かったことを追記する形で継続して資料作成していくことにしました。当サイトの固定メニューに「篠井金山」という項目を作り、記事がある程度まとまったらアップしていきます。(現在まとめています)

1.篠井金山の歴史概略
~佐竹氏による金山開発~
篠井金山の歴史は戦国時代(西暦1500年頃)にまで遡るだろうと言われています。言い伝えでは当時、宇都宮を支配していた宇都宮氏がお隣、茨城県の大名「佐竹」氏の力を借りて金山開発を始めたのではないかとされています。(この両者は政治的に結びつきがあり、佐竹の娘3人が宇都宮氏に嫁いでいます。)

茨城県は当時、良質な金山がいくつも存在し、佐竹氏の支配のもと運営されていました。そういうわけで金山の採掘技術や鉱山運営のノウハウが佐竹氏側にあったのです。それを借りて篠井の山を金山として開発したと思われます。
金山の場所としては榛名山(当時はガンガラ山)、男山、本山にかけての一帯だったとされています。(実際、採掘跡が確認されています)

現在、中篠井には真言宗のお寺「東海寺」がありますが、ここが金山開発時の事務所だったと伝えられています。佐竹氏は茨城県の常陸太田を本拠地としていた大名で、現在の東海村の村松にある虚空像菩薩を持念仏(じねんぶつ)として崇拝していました。篠井の金山開発において安全祈願と事業の成功を祈願して東海寺に虚空像菩薩像を寄進して守り神としたそうです。東海寺もこの時までは別の名前が付いていましたが、東海の地から仏様を持ってきたことにちなんで「東海寺」に改名されたということです。(東海とは原子力発電でよく名前が出てくる現在の東海村のことです。)

戦国時代後半(1500年代後半)、篠井の金山開発が盛んになり、19代当主「佐竹義宣」(さたけ よしのぶ)の頃が最盛期だったと「篠井の郷土史」は伝えています。当時の金山の鉱夫達が歌ったとされる「篠井金掘唄」では「ハ~ 佐竹奉行は己等(おいら)の主よ 恵みあつきで精が出る」と大名佐竹の名前が出てきます。

しかし、天下分け目の戦いと言われる「関ヶ原の戦い」で篠井の金山開発の状況が大きく変わります。佐竹義宣は徳川家康の敵側の石田三成に加担したというかどで1602年に石高(こくだか)も告げられぬまま秋田に転封(お国替え)されてしまうのです。(1602年というのは江戸時代が始まる前年のことです)

佐竹氏は家臣を引き連れて秋田に向かい、秋田の大名として懸命に生き延びていきます。江戸時代一度も家督が途切れることなく、名家として続いて行ったのです。佐竹氏が秋田に移ってから、経済基盤を確立させるためにすさまじい勢いで金銀山の開発、森林資源の開発(秋田杉など)を行っています。
現在の秋田県知事の佐竹敬久氏も佐竹の末裔です。

2.江戸時代の金山開発
江戸時代になってから篠井の金山開発がどうなったのかよく分かりません。茨城県ではそれまで金山開発を行っていた佐竹氏がいなくなり、金山は徳川に引き継がれたが、次第に衰退の一途をたどったと歴史書には書かれています。秋田に転封になったときに主要金山の坑口は全部ふさいでしまい、金山技術者も一緒に連れて行ったとされています。徳川側に金を持って行かれるのが嫌だったんでしょうね。

戦国時代末には宇都宮藩の当主、宇都宮国綱は浅野長政の陰謀で改易となり、備前国(岡山県)に流され、宇都宮氏は断絶します。金山開発の実行部隊であった佐竹氏もいなくなります。そのような状況で実質的な指揮者が徳川に取って代わられます。


野州篠井村金山図(江戸時代初期)

江戸時代になると全国の金山絵図が盛んに作られるようになり、その中に写真の篠井金山の絵図もあります。これは現地の金山奉行が江戸初期に作成させ、幕府に提出されたものと思われます。

資料に残っている史実として江戸末期の安政3年から5年(1856~1858年)にかけて宇都宮藩による篠井金山の再開発が行われます。これは宇都宮藩の財政が困窮して、窮余の策として行われたものです。二十貫あまりの産金を得たといわれ、成功したかのように思われました。しかしその後は坑内の水抜きの問題や硬い岩盤にぶつかって掘り進めなかった等の技術的な問題や資金難で結局2年足らずで頓挫します。

その後、明治に入ると明治3~4年ごろ、由利金正により外国人技術者が招かれ、産金が期待されたが、途中で由利が亡くなってしまい、事業が中止に追い込まれてしまう。その後は三井、大篠鉱山、日立鉱山、日東鉱山、東邦亜鉛と金主が目まぐるしく入れ替わり昭和40年ごろには閉山となっている。

投稿日:2017年8月14日 更新日:

執筆者: