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篠井金山プロジェクト(途中経過2)

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江戸時代の篠井金山のパネルを作って市民センターに飾るというプロジェクトを開始したことを先日のブログでお伝えしましたが、今日はその中間報告です。

先日、篠井地区市民センターの所長名で国立科学博物館(東京上野公園)に「篠井金山絵図」データ借用申請を出してもらい、数日後にデータがメールで市民センターに送られてきました。(5MB位のスキャンデータです。.jpg)その画像データを私宛に送ってもらい、中身を確認したところ本に載っていた縮小画像では分からなかった様々なことが発見され、大変びっくりしました。

非常に細かい所まで書かれていたのです。現在の日光街道から船生街道に曲がるところは一里塚の石碑もきちんと書かれており、上徳次良宿、石名田村等の江戸時代の地名表記もありました。(私が住んでいる石那田町は江戸時代は石名田村と表記されています。)金山の坑道口(鋪口;鉱山用語では「しきぐち」と呼びます)まで赤い線で引かれていて、入り口の所には「休み小屋」等の施設も書かれていました。


野州篠井村金山図


篠井金山絵図が載っている本

(現在やっていること)
1.印刷屋さんとパネル製作の打ち合わせ
・・・市内の適当な印刷屋さんを見つけ、パネル制作の打ち合わせと見積依頼をしています。サイズが115cm×55cm位の結構大きいもので、説明パネルと合わせると数万円かかる見込みです。

2.説明パネルの作成
・・・内容をどのように説明したらよいか

(一番びっくりしたこと)
「篠井金山絵図」は国立科学博物館が発行した「日本の鉱山文化」という書籍に画像として掲載されています。この本を読んでいくと、本に掲載されている絵図の多くが明治6年にオーストリア・ウィーンで開催された万国博覧会に明治政府から鉱山関係資料として出品されていたと書かれていました。(篠井の金山絵図も含まれています。)

更に、万国博覧会に出品した絵図はオリジナルでなく、明治5年ごろに複製品を作り、それを出品したとなっています。現在、国立科学博物館が所蔵している「野州篠井村金山図」は明治初期に作られたレプリカ(複製品)だったのです!そのため地名等の表記が江戸時代のものと明治時代のものが混在しており、注意が必要です。

実はまさにこの点がどうしてもよく分からず、困っていたのです。絵図の内容は江戸初期のものと思っていたのですが、絵図の上の方に「野州篠井村金山図 仁田登 差出」と書かれており、「仁田登」って誰?江戸時代の人の名前じゃないよな・・・とずっと思っていたのです。(多分、明治時代に絵図の複製品を作った人か、複製品を明治政府に送った人の名前でしょうか?)

その他に絵図中にある「上篠井村」、「中篠井村」という表記にも悩まされ続けました。江戸時代の篠井は「篠井村」であり、幕末にならないと「上篠井村」、「中篠井村」という表記は出てこないのです。だからと言ってこの絵図が幕末の篠井金山かと言えばそんなことはないです。篠井金山は幕末には稼働していないのですから。(安政3年から5年まで宇都宮藩による金山試掘はありましたが)

地元の人が知らない金山の事実が次々に出てきてもうびっくりの連続でした。篠井金山の絵図がウィーンにまで行っていたとは超びっくりでした。
今回はこの辺で。

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